死に至る病 を読む 3日目

B.絶望の可能性と現実性。

絶望のことを抽象的に考えようとするならば、絶望は非常に優越である。

本質的に、精神的に優越、つまり動物(他の人間でない、精神を持っているとしない)より優れている点がこの絶望という病に罹りうる点であるという。矢鱈キリスト人を推してくる。自然人よりも優れている点であるとかどうとか。哲学はこの時代キリスト教のものだったのか?いやいやいや…

まあこれは「そうといえなくもない」部類に入る事柄なんだろうなあ。絶望にどれだけを巻き込んでいるのか知らないが、自己自身への関係としての綜合の分裂関係が生み出すもの…という時点でそれは「点」として認識すべき範疇を超えているような気がする。

あんまり考えてたら先へ進まないな。

絶望に罹りうることが優越である。然し人は絶望に罹ることで現実には負の作用しか生み出さない。これは一般的な可能性と現実性の相互関係とはまったく違った関係である。可能性が現実に顕現するときは基本的に夢が叶うといったような関係(つまるところ精神と肉体の関係とも言える)だ…。

ん?そうかな?一概に可能性を現実性に、存在可能性を存在に昇華させるときは(もちろん絶望に罹りうることを除いて)本当に上昇を伴うだろうか?

というかそもそもこれを可能性と現実性の関係に落とし込めようとするところに大きな疑問がある。論点が少しずれている。この対照は「絶望は負の作用の関係である」こと以外はなにも証明できないと思う。だから、他の「死にうる」だとか「悪夢を見うる」だとかいう、(おそらくは)ひどくキリスト人的でないところまで絶望のレヴェルを落としてしまったのではないか?

このあとからもだいぶ結構…ゴチャ混ぜだ。

絶望に関して言えば絶望していないというそのことが実は上昇なのである。(中略)絶望していないということが、絶望していないこと以上でも以下でもない場合には、それがかえって絶望していることなのである。

しかし盲やびっこ引きではない―ということとは違う。とか。

うーん、この辺りの可能性と現実性の関係はもう少し解剖すべき要因が絡み合っていたと思う。ので飛ばす。読むけど考えない。

絶望は綜合が自己自身へと関係するその関係から来る。つまり絶望というものは人間を作り給うた神の手から離れて人間ひとりに責任が発生するものなのだ。キリスト教ってすごい。

絶望はまた、絶望それ自身を自己の関係が作り出すところに残酷な一面がある。絶望というのは単なる病とは違い、絶望した瞬間に絶望自身を自己が招き寄せているのだ。一切の過去的なるものを一挙に現在へと受け取るのだ。

永遠者、という言葉が出てくる。これはなんとなくだが「連続的な」といったような言葉に近いように思う。過去と未来を持つものという意味に近い気がする。刹那を生きる不連続存在としてでなく、過去から連続的に生きているからこそ絶望を現実に招き寄せ続けているのである。

C.絶望は「死に至る病」である。

キリスト教的に、死に至る病なのである。どういうことだ。審判の日まで安らかに眠るのか。どうにもこうにも、肉体的な死が死というわけではないらしい。

この病は肉体的な死によっては終わらない。

簡単に死ねるなら絶望なんかしねえよ!!死が希望に見えるならそれは絶望じゃねえ!!!と書いてある。おお、そのとおりだ。ここに来て感動した。

死を死ぬる…なんとヤバい響きだろうか。ジョジョだ…。

絶望とは自己自身を食い尽くすことにほかならない。しかし、絶望は力でなくエネルギィなので実際に自己には働きかけられない。自己を穿ち続けることが更にその無力感を生み、絶望の熱を燃やしていく。これが絶望の深刻化の定式である。

ちょっと波に乗り始めたので書くのをやめて読むことに没頭することにする。もう少しまとめて書こう。面倒だ。

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