たまゆら 卒業写真 第二部 〜響〜

特典を貰うために2回見た。同じ映画を映画館で2度見るのはこれが初めて。

のりえちゃんの話どうでした?俺は正直どうかなあと思いましたね。

そもそも俺はTVアニメたまゆらをよく覚えてない。だからああいう登場人物の心が突然乱れてしまうことが本編であったかどうか、本編と比べて映画版の構成がどうかというのは論じられない。もう一度見れば済む話なんだろうが、生憎たまゆらに割けるリソースは少ない。

のりえが急にはぶてた(広島弁)のはなぜだろう。劇中では「兄貴に言われて目が覚めた」だの「納得してしまった」だの言っているが、それにしても人生のほぼ全てを共に過ごしてきたスイーツを、あの一言で断とうと考えるのは些か飛躍しすぎでないかなと思う。

あの映画の中で一番まずかったシーンはやっぱりまさのりとのりえの問題のシーンだろう。あれは元々のりえの回想としてのシーンであったのに、演出や間の取り方が悉くまさのり主観のものだった。今思えばそう考えられるんだけど、映画館でリアルタイムに観ていた俺はそのギャップに惑わされてついついパティシエになるのがのりえの夢(重い夢)であると錯覚してしまったのだ。

そう、のりえにとってあのスイーツ断ちというのは何も夢を諦めたとかそういうものではなかったんだろうと思う。仮令形式上そうだったとしても、まさのりや東郷が見据えている明確な将来像としての夢と、のりえの「世界に通用するパティシエになる」という夢では、時間に対する具体性が決定的に違う。のりえは明確なヴィジョンを世界にまで拡大して見ているわけではないのだ。そこにあった唯一の確固たるものは「スイーツが好きなわたし」だけだった。

かおたんが劇中で言っていたように、世界というのはちひろ達から受けた漠然とした焦りを与える巨大な実体なきものであり、それは当事者の意図するところとは違い単なる冠詞に過ぎなくなっている。思春期に於ける風邪みたいなもんだ。

まさのりがあの言い合いの中で具体的な、「世界」というものの明確なヴィジョンを(しかもちひろ達と違って実体験からくるものでない、婉曲され誇張されたおそろしい”現実”を)並べ立てたあとにあのようにのりえが”夢に対して”無気力となるような描写を入れるべきではなかった。本質的には「世界」という冠詞と「スイーツ好き」が、夢という、何か漠然とした不安のようなもので結び付けられているのりえの今の状態を解体して再構築するだけの”スイーツ断ち”だったのだ。

人と人との暖かな繋がりを今まで重視してきたたまゆら世界の住人にとって、ちひろ達の持つ世界という概念はあまりにも魔物すぎる。あの短い時間でそれを証明しようとしたのがそもそも無理だったと思う。結局、日常の延長としてのパティシエというイメージ像と、演出やのりえの周囲の登場人物が醸し出す夢の漠然とした不安がミスマッチだったということなのではないだろうか。

かおたんはめちゃくちゃ素直だったので言うことはない。竹原市立図書館は確か藤三の北側にあるので図書館行こうっつって記念橋あたりを通る意味がよくわからなかった(反対側、つまりアイスを食べていた側の道路を南に行くほうが近いのであの広場へ向かっていたほうが自然だった)くらいか。

あとカーブの手前5mは駐停車禁止区間な。サトジュンは普段車を…運転…しないだろうなあ。

やっぱり今回は詰め込みすぎだったんじゃなかろうか。ノルマを達成しようとしていたのがヒシヒシと伝わってきてとてもつらかった。もっとじっくりキャラと向き合った時間を反映させてほしい。

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